序
やぁ。
本誌は「魔」に関する考察と歴史、そしてその実践の方法を紹介するものだ。
わたしや光人たちが世界をどのように捉え、どんな風に見えているのか、それをなるべくわかりやすく紹介したいと思う。
注意事項
ここに書かれていることは、現代科学では根拠のないただの夢物語に過ぎない。けれど、気をつけて欲しい。プラセボや自己暗示、思い込みという効果が人間にはあると言うことを。そしてその効果は決してバカに出来ない。だから本誌に記されたことは、ただのフィクション、夢物語としてとらえて欲しい。決して信じたりしてはいけない。
方針
魔を学ぶにはたくさんの知識を必要とする。悪魔の名前や複雑な図形や物質の名前、ユダヤ教やキリスト教、さらにその宗派と教理の話、そしてそれらがどう関係していて、何が正しいのか、どう情報を集めればいいのか、などなど憶えなければいけない知識は膨大にある。
サバト倶楽部ではそういう難しいことにはとらわれず、なるべく単純に西洋魔術を紹介するよう試みようと思う。
言葉の役割
魔には呪文がつきもの。
これは神が言葉によって多くのことを成し遂げたことから、人もそれに倣ったものだとわたしは考えている。そもそもユダヤ教やキリスト教において、「言葉」というものは重要であり、その教理と歴史の中で特別な地位を占めているのだ。
ただこれは何もユダヤ教、キリスト教に限ったことではないと思う。たとえば日本に馴染みのある宗教にしても祝詞や経と言ったものがある通り、言葉というものは、神と人を繋ぐ重要な一つの手段といえると思う。
言葉がそこまで重要な理由の一つは古代、言葉を自由に操れるということは、特権階級であることの現れだったからだとわたしは推測している。さらにそれは喋るだけでなく、記録という文字へと転化されていくわけだけれど、そこに於いてもまた記録できる者は限られた存在であったことだろう。
だから言葉によって物事を成し遂げる、言葉によって万物を操るということは、わたしたち人間にとって自然と現れる次へのステップだったのだ。そしてその万物を操る言葉こそが「呪文」と言えるのだと思う。
呪文という言葉を使ったけれども、もともとは「預言」「祈り」が最初だったと考えられる。預言は神から言葉を預かることで、予言とは違うことに注意して欲しい。
さてここでユダヤ教とキリスト教の決定的な違いを述べようと思う。
キリスト教では祈りの言葉を自由に創作する。神に対して祈るとき、懺悔、願い、感謝などの言葉はすべて祈る者がその場で言葉を創作し、神に祈る。ところがユダヤ教はそうではない。ユダヤ教は祈るとき、その祈る言葉は決まっている。
ユダヤ教では祈る時、聖典(ミクラー)や、口伝律法(タルムード)という聖典を補う律法集に書かれている祈りの言葉を用いる。ミクラーやタルムードには、儀式や様々なしきたりを記しているだけでなく、どういうときにどういう祈りをするのかということが事細かに記されていて、ユダヤ教はその言葉に従って祈るのだ。
実はキリスト教にもその影響は残っていて、カソリックは特にその影響が強い。あとから生まれたプロテスタントはその影響が薄いけれども「使徒信条」や「主の祈り」という形で残っている。これらはプロテスタントといえども一字一句祈る言葉が決まっている。
神のものから、人のものへ
しかし言葉にはもう一つの顔を持っている。現在のアルファベットの原型はフェニキア文字といって、紀元前 1000 年頃に生まれた文字だ。これは当時の楔形文字や象形文字に較べて、たった 22 文字を憶えるだけで言葉を表現出来る画期的な発明だった。ユダヤ人が使うヘブライ文字も、欧米人が使うアルファベットも、フェニキア文字が元祖だ。
このフェニキア文字が中東そしてヨーロッパに広まるにつれて、同時多発的に色んな場所で叫ばれたことがある。
それは「神の声が聞こえなくなった」というものだ。
かつて人は神と共にあり、神と共に生活した。
言葉は神から与えられたものであり、人は自分の意志決定を「思考」によって行う。「思考」とは言葉を用いて、自分の知識や目の前にある状況を把握しながら次の行動を決めていくことだ。言葉が神から出たものならば、言葉で思考することは即ち、神が自分の意志を決めていたことになる。
けれどフェニキア文字が登場し、多くの人間が言葉を記録できるようになると、言葉は神のものから人間のものへと移ってしまった。そう、人は神から離れてしまったのだ。
中世ヨーロッパの万物のとらえ方
さて、今度は魔法使い──探究者──たちがこの世界をどうやってとらえていたかを考えてみよう。
わたしたちが住むこの世界がどうやって成り立っているのか、わたしたちの身の回りにあるもの「海」「山」「川」は何でできているのか、空はどうなっているのか、そしてわたしたち自身の身体はどうやってできていてどうして動くのか。
このことは遙か昔からの人間達の大いなる疑問だった。
ギリシア哲学は多くの示唆と、思考と、答えを残したけれども、間違ったものもたくさんある。
けれど、ヨーロッパの万物の研究が、彼らギリシアから受け継がれていることは誰しもが認めるところだと思う。そして、探究者たちは万物を構成するのは四大元素だという所にたどり着いた。
有名な、風・火・水・土だ。
けれどこの理論と実験はなかなか一致しなかった。今ではわたしたちは元素周期表を知っているし、燃焼という化学反応を知っているし、固体・液体・気体という物質の三態を知っている。けれどもそこへたどり着くには、長い長い時間が必要だったのだ。
そして多くの探究者達は言葉の力をも信じていた。つまり神が言葉によってすべてを成し遂げたように、万物を構成する風火水土に語りかけることによって、物事を成し遂げることができると考えたのだ。
しかしそのためには風火水土が「言葉を理解する必要」がある。万物の構成元素が言葉を理解するとはどういうことか? それはつまり精霊や妖精の存在が不可欠だったと言いうこと。
クス、そういえば今でも水に語りかけるなんてことをしている探究者もいたような気がするね。どうも今でも万物が言葉を理解すると思っている人たちもいるようだ。ただ、水に語りかけることと西洋魔術とは関係ないということだけは心にとめておいて欲しい。
言葉だけでは魔は使えない
結果的に言葉が神を離れ、人のものとなってしまった。そして万物は聞く耳を持っていないことが解った。
ここで示されることは何だろうか?
それは魔術を使うには「人もまた神でなければならない」ということになる。
万物を理解し、それを意のままに操れなければ、魔術は成功しない。これをわたしたち魔法使いの間では「大作業」と呼んでいる。
科学的に説明するならば、大統一理論を理解し、すべての量子の存在を把握し、コントロールすることになるのだけれど、今の人間の脳ではそれは不可能だ。
となれば、それが可能な存在にお願いするのが手っ取り早い方法となる。
やっとここで、西洋魔術の核心を話すことができる。
そう、前回の冒頭で出てきたソロモン王の話を思い出して欲しい。
ソロモン王は 72 柱の悪魔を使役したという。
理想を言えば、神を使役することができればそれがもっとも確実でもっとも強力な魔術となる。けれども聖書にある通り、神は神の意志──これを「御旨」もしくは「御心」と言う──に沿ったものでなければ決してその願いを聞き入れない。
次点は天使を使役することだけれども、天使もまた、神の意志を代行する者であって、人間の都合で動いてはくれない。
するとどうだろう、人が頼れるのは悪魔しか残っていないと言うことになる。
そう、西洋魔術において悪魔の力を借りるのは必然なのだ。
悪魔と適切に契約を交わし、自己の成し遂げたいことを悪魔に委ねる。悪魔は言葉を理解出来るから、探究者の言葉をくみ取り、探究者の成し遂げたいことを実行する。こうして魔術は成立していく。
ところが話はそう簡単ではない。
悪魔にもいろいろ種類があると言うこと、そして悪魔と契約をするのはいいけれど、何でもかんでも契約すればいいというわけではないのだ。
契約というのは人間と悪魔の「合意」を指す。
そして人間が成し遂げたいことを、悪魔が無条件に受け入れることはない。それは何も悪魔でなくても解ると思う。いきなり見ず知らずの人から、急に頼み事をされたら、あなただって断るだろう。それは悪魔に対しても同じこと。
適切な頼み方があり、そして適切な代償がある。頼み事をする代わりに、悪魔に代償を払わねばならないのだ。
こうしてみれば、悪魔の力を借りることは、あくまでも契約上の一現象に過ぎないことであり、契約さえ守ればすべてはうまくいくように見える。そして大部分の魔術というものはその程度で済むことであることも確かなのだ。
悪魔と契約することの難しさ
さて、では万物を操るとしようか。
わたしにあなたよりも少しだけれども万物が解る。それは空気の流動を知り、水に溶けているものを知り、目の前に立っている人の心の中を知る程度のことだ。この程度のことでも、ものによっては成し遂げられることもある。
たとえばあなたの心の内を知っていれば、会話は有利に進められるし、水に溶けているものがわかれば、その水が飲めるかどうかが解る。
けれどこの程度ではあなたの心そのものを動かすことはできないだろうし、水を作り出すこともできない。それらを成し遂げようとすると、悪魔の力が必要になってくる……というわけ。
そう、成し遂げたいことによって、自分でできること、悪魔に頼らなければできないことに分かれる。そしてさらに、悪魔にも得手不得手、向き不向きがある。これが魔術を難解にしている一つなのだ。
強力な悪魔と契約を結ぶことができればそれは最高かもしれないけれど、その分、悪魔が求める代償もまたより重いものとなる。だから簡単なことはより力の弱い悪魔を頼った方がいい。
けれど間違った悪魔に、不相応なお願いをするのもまた厄介なことになる。
この見極めは実に難しく、多くの探究者がこれによって失敗しを繰り返してきた。そしてその失敗の集大成が、現代に伝わる魔道書であり、呪文書であり、魔の研究のすべてと言えると思う。
魔を操る言語について
それでは、実際に悪魔と契約を交わす前に、わたしたちが主に使っているラテン語について触れようと思う。
わたしもそして水帆や水翼も、魔を使うときはラテン語を使う。
これはラテン語が魔に適している言葉だからだ。
けれどもっと適している言葉がある。それはヘブライ語であり、ギリシア語だ。
神と直接対話していた時代の言葉は強い。
この二つを使いこなし、翻訳される前の原語が使えれば、それほど心強いことはない。
けれどこの二つの言語を習得するのは難しい。
ラテン語はローマ時代から使われ、長いこと魔の研究と共に洗練されてきた現役の言語。そして英語を少しかじったことがあるのなら、簡単とは言わないけれど、勉強はしやすい。文字もほとんど同じだ。ギリシア語やヘブライ語は文字の勉強からしなければならない。
ヘブライ語は現役の言語ではあるけれど、0 から学ぶにはハードルが高いし、日本には話者や資料が少ない。けれど、ヘブライ語がもっとも強力な言語であることはわたしも認める。というのも、ユダヤ社会はローマ帝国にイスラエルが滅ぼされて以降、世界中に散らばらされてしまった。散って行った彼らはユダヤ教の戒律をしっかりと守りながらも、言葉はどうしても現地の言葉を使わざるを得なかった。
こうして 2000 年近い時が過ぎた 1948 年に彼らは自国を手にするわけだけれども、この時にヘブライ語を改めて使うようになった。当然、ヘブライ語が話せないユダヤ人も多く、ヘブライ語の再設定が行われた。この時、2000 年前のヘブライ語が基本となった。つまりヘブライ語には古典がない。現在話されているヘブライ語は 2000 年前に話されていたそれと基本的には変わっていないのだ。
だからもしヘブライ語をマスターできるのであれば、それが一番だと私は思う。
他にも、ドイツ語やフランス語も魔の研究に使われているから、使えないこともないのだけれど、ラテン語に較べるとその歴史は浅い。
もっと浅いのは英語で、さらに浅いのは日本語ということになる。ただ英語は今、もっとも西洋魔術の研究に使われている言語になりつつある。いずれラテン語並に発展するのではないかとわたしは見ている。
ところで日本語だけれど、悪魔と契約を交わした例をわたしは知らない……のだけれど、この辺は次回の悪魔との契約でその本質を明らかにしたいと思う。
終
ふぅ、第二号はここまで。
どうかな、少しはわたしたち魔法使いの視点というのが解ってきたんじゃないかと思う。そしていよいよその核心に迫ってきた。魔というものがあなたにとって現実味を帯びて来たと、わたしは信じている。
次回は実際の悪魔との契約や、悪魔の見極めについて触れていくことになると思う。
少しでも「魔」の存在を身近に感じることができたなら、わたしは凄く嬉しい。
というわけで、我が聖天翔学園秘密探偵社では部員を募集中。興味のある人はカシオペア座にペンタグラムを向け、我が名を呼ぶといい、三日のうちにわたしがあなたのもとに現れるであろう。
もし、現れなかったら縁がなかったと思って諦めて欲しい。
奥付
発行日: 2011/05/13
発行者: 聖天翔学園秘密探偵社
印刷所: 聖天翔学園生徒会 印刷局